自分とは異なる集団に属する人と出会ったとき、相手の様子によって人の行動は変化する。
中でも攻撃や援助は心理学においてとても重要な行動とされているが、
実験実施上の制約が大きいために理解が進んでこなかった。
その困難を克服するため、帝京大学内に点在していた多分野の叡智が結集。
社会心理学の実験環境としてのバーチャルリアリティ空間を構築した。
実験中の生体情報を精緻に計測することで、
特定の環境での生体反応やそこから導かれる社会的行動を予測しようとしている。
3分野の叡智が集結し
社会心理学のVR実験環境を構築
例えば、見知らぬ土地で、自分とは異なる人種の人と遭遇したとする。そのときに人は、どのようにして外界からの情報を受け取り、判断するのか。その瞬間に人間の体に生じる変化を捉え、判断して行動するまでを実験によって観測する研究プロジェクトが進められている。
実験を行うのは現実の世界ではない。コンピュータ内に作られた全方位(4π方向)のVR(Virtual Reality:仮想現実)の世界だ。実験参加者はヘッド?マウント?ディスプレイ(HMD)と呼ばれるゴーグルを装着し、実験環境であるVRの世界に入り込む。その世界で目線や頭を動かせば現実と同じように見えるものが変化し、移動したりそこにあるものに触れたりすることもできる。
「バーチャルリアリティの動的集団間状況において生じる生体反応から社会的行動を予測する」と題したこの研究プロジェクトは、文学部心理学科の大江朋子教授が発案。大学院医療技術学研究科の古徳純一教授、理工学部情報電子工学科の小川充洋准教授という、キャンパスも学部も異なる3人が集まってスタートした。
「心理学では以前からVRを用いた研究が行われていますが、心理学者はあくまでもVRのユーザーであり、複雑なプログラミングやデータ解析はできません。当初は遠方の研究者との共同研究も考えましたが、帝京大学にはVR関連研究で質の高い業績をもつ研究者がいると知り、今回のプロジェクトが実現しました」(大江教授)
実験参加者のアバターが自在に動ける
全方位のVR空間をつくり出す
実験フィールドであるVR世界では、実験参加者が、自分とは異なる属性の人物と出会う。参加者は日本人でも、そこで出会う人の人種や性別、年齢などは自由に設定できる。VR世界に入った実験参加者は、相手が危険な行為をしていれば「攻撃」、困っているようであれば「救助」、特に問題がなければ「見守り」をするよう指示されている。そのときの実験参加者の視線、生体反応、行動選択を精密に計測することが実験の目的だ。
「集団間状況を検討するには、特定の実験環境を用意し、たくさんの実験参加者を集め、何度も同じ状況で実験を繰り返す必要があります。しかし、攻撃や救助といった行動を再現することには物理的、倫理的な問題があり、実験が困難でした。その点、VRであればどんな環境でも自由自在に構築することができ、完全に制御された環境下で安全に実験を行い、リアルタイムでさまざまな生体反応を計測することが可能です」(大江教授)
VR空間やアバターの動きなどをプログラミングした古徳教授は、インターベンションナルラジオロジーの術中の放射線量をリアルタイムで計算する技術を基盤として、VRで可視化するシステムを世界で初めて構築し、国内外の学会で多数の受賞経験をもつ。医療三次元データから応用数学を駆使して情報を抽出するスペシャリストであり、本研究では視線トラッキングシステムなども開発している。「この研究ではVR空間を開発して終わりではなく、ここで取得したデータの解析も大変重要です。視線データやさまざまな生体情報を解析して、新たな数理モデルを構築したいと考えています」(古徳教授)
プログラミングを担当した大学院医療技術学研究科診療放射線学専攻博士課程(古徳研究室)の高田剛志さんは、VR空間内のキャラクターの動きの制御に苦心したと振り返る。「実験参加者は、VR空間で出会う人物のふとした仕草などから攻撃すべきか救助すべきかを判断するので、キャラクターは自然な動きでなければいけません。そのために関節の可動範囲や動くスピード、VRの環境などを、放射線量可視化のためのVR開発の経験を生かして、細かく制御し、何度も大江先生にチェックしてもらいながらブラッシュアップしていきました」(高田さん)
非侵襲的に体温や脈波を計測し
心理刺激と生体反応の関係を解析
実験中は、体温、心拍数、呼吸数、血圧などの生体反応を連続して計測する。将来的にはVRのゴーグルやコントローラーに埋め込んだ計測機器による非侵襲的な計測を実現し、実験参加者が計測されていることを意識することなく実験を行うことをめざす。
生体計測を専門とする小川准教授は、デジタルゲームプレイ中に生体計測を行うことで健康状態がわかる未来型の健康管理システム「毎日ゲームで、毎日健康」を開発?研究。VRゴーグルに埋め込んだ光センサで前額から脈波を計測し、脈拍数を算出する仕組みを開発した。このデバイスは将来的に本プロジェクトにも導入する予定だ。
「私がめざしているのは、心理刺激と生体の関係を解析することです。脈拍数の変動を解析して自律神経機能の活性度がわかりますし、VR空間での実験ならば、日常的に発生するような軽微な心理刺激に対する生体反応も見ることができます。体温については皮膚表面温度と体内中枢の深部体温の両方を計測し、その変化や両者の差から心理刺激に対する徴候を捉えられないかと考えているところです」(小川准教授)
深部温度は心理学的にも重要なポイントであるとして、大江教授も期待を寄せている。「心理学では以前から気温や体温と攻撃行動の関係が指摘されていますが、深部温度などの生体反応と攻撃行動のかかわりについてはまだ研究されていません。小川先生の研究は、行動と思考、身体の関係を考える上でとても貴重なものです」(大江教授)
自分の思考や行動を予測する
教育支援ツールとして活用
2019年度から始まったプロジェクトは、約1年かけてVR実験環境を構築し、予備実験を終えたところだ。本格的な実験は始まったばかりだが、まずは温度と攻撃行動?援助行動の関係を検証していく。その先の産業応用としては、さまざまな環境下での自分の思考パターンや行動を予測する“教育支援ツール”が考えられるという。
「例えば、外国人とかかわったことのない人がVR空間で外国人とのかかわりを体験するなど、現実に近い感覚でのコミュニケーションのトレーニングが可能で、そのような人と出会ったときの自分の考え方の傾向を事前に知ることができます。また、これまでは実験困難だったメンタルストレスについてもVR空間ならば簡便に検証できるので、それぞれの職場に応じた最適環境を構築するなど、労働者の身体的?精神的健康の向上に役立てることができるはずです」(大江教授)
人が他者や社会とかかわろうとするとき、どうしても生じる認知のバイアス(偏り)がある。多くはそのバイアスに気づいていないが、この研究では生体反応という指標を使ってバイアスを自覚させることができる。そうした気づきをきっかけに、他者とのかかわりがよくなることもあるだろう。一見無機質なVRだが、見えにくい人の心の状態を明らかにし、人間理解の知見として発展する可能性を秘めているのだ。